【レクチャーレポート】121~144
R121:蓮沼志恩
三井氏の講演を聞いて、三井氏は建築がないことが理想であり、自然に近い状態で建築することを、記号化という操作で人間の認知をすり抜けると変換しているところが印象的に感じた。
初めの万博のステージのお話の中で三井氏は、「ステージをつくるのに建築はいらない。目印さえあればいい。」と仰っていた。建築設計をする我々としては、「ステージをつくろう→建築でどうつくろう」となってしまいがちだが、そもそもの原初のステージとは、人々の注目を集めやすい小岩の上や隆起した地形の上だったと思う。原初の形を考えることが三井氏の理念を理解することにつながると感じた。このステージの1枚屋根を支える柱や神宮前のギャラリーの柱には特徴的な装飾があしらわれている。このアンティーク風の装飾があることで、既視感のある家具だと脳が認識し、既知のものだと判断してしまう。三井氏はヒトの認知を利用することで、できる限り柱としての存在感を消すことを狙っている。そもそも装飾とは美しく装うことである。人間にとって美しいものが自然物であるなら、装飾の原初は自然物の模倣である。装飾とはその先にある自然物を思わせることに意味がある。三井氏のステージやギャラリーの柱の装飾は、装飾の中でも抽象化された形態であるように思える。これは見る人によって色んな見方ができ、つまり記号化されやすい。
ここで、クリストファー・アレグザンダーのセミラチス構造が思い浮かんだ。ある事象の見方であるツリー構造が複数合わさったものがセミラチス構造であると私は解釈している。人間が作るものはどうしてもツリー的になってしまい、そこから使い手がどう読み取るかという姿勢が大事なのではないかと考えていたが、三井氏の例では、作り手が多元的見方をさせることに成功していると感じた。柱の存在がセミラチス構造となるきっかけを抽象化した装飾を施すという操作で行っている。私が作りたい偶発的事象はこういった操作から生まれるものなのかもしれない。
R122:後藤駿之介
三井氏の講演より視覚情報,視界に入った際に何を感じるかについて注目しているように感じた。講演冒頭にあった「見た目的な透明はできても本当は透明ではない」という話から繋がり「空間を消した」というような話が多く出ていたが,自分は空間を消したことにより自然の一部になったという解釈をした。
軽井沢の住宅の話で住宅部分という枠組みにとらわれず,遠い異国地を想像させ,建物が中心ではないように思わせるようなつくり・仕組みにしていたが,これは建物が自然の一部になった認識ができたことで成り立っているのだと感じた。一方で,雑誌などでの掲載部分を見た際に,その建物自体がピックアップされてしまうため講演内容を踏まえた上でも建築のその先を感じることや空間を消すことに対する表現の難しさを思った。待庵の柱が見えないようになっているが,鴨井が伸び見えない柱がある場所まであることで空間に安心感を与えながら空間を消したという部分は面白いと感じた。自分はそこからなぜ待庵の外壁と重なる部分ではなく,内壁の部分の柱を消すようにしたのかに興味を持った。茶室も空間を消していることから詳細を読み解いていくと設計者の意図や拘った点が分かりそうだと思った。
視界に入った際に何を感じさせるかにおいて建物の枠を超えてその先にある何かを見ることができるかという視点を今回の講演から知ることができたので,これまでに見た建築も含めて色々な建築をその視点を用いて観たいと感じた。
R123:山内結稀
今回のレクチャーでは建築家の三井嶺さんをお招きし、「古典の先の原初へ」というタイトルでご講演して頂いた。自然は美しいといった一般的な感覚をあえて否定し、自然は本質的に不快であるという視点から建築が人間の快適さを介して、どのように自然を構成するかが語られていた。一本の丸太を空間の記号とし、鳥居や柱といった存在を曖昧にしたり、屋根に動きを与えることで建築物という硬いイメージの常識から離れる手法をとったりなど、建築の常識や構造から逸脱し、自然と人為の際を攻める姿勢が印象的だった。このように建築とは、単なる機能や構造物ではなく、「行為」、「感覚」、「象徴」から生まれるものなのではないかと考えさせられた。また、松葉の屋根のように持続可能性よりも枯れることを選ぶ潔さや、ただ万博に参加するだけでなく「共に作る」というお祭りの楽しみ方を大切にしている精神に感銘を受けた。千利休や桃山文化に見られる「欠け」や「反転」といった日本的な美意識を起点とし、それを万博という場での実践へとつなげていた点や、伝統を深く掘り下げながら、原初的な建築のあり方へと遡ろうとする三井さんの姿勢は、今後の建築の在り方に対して新たな視点を与えてくれるものであった。
R124:一ノ瀬愛弓
三井氏の「古典の先の原初へ」の公演を通して、三井氏にとっての建築のあり方や自然と建築の関わり方を知ることが出来たと思う。
三井氏は万博というお祭りの場で建築をいかに透明に近づけるかという題に対して、丸太1本が浮いているようなステージをつくっていていた。本来縦に生えている木が横向きになるだけで異空間がうまれ、場がうまれるという操作は、自然の緑の中にある赤い神社の様に、あえて常識から「対」にすることで周囲に馴染みつつも場がうまれるという面白さを万博で実践していた。また、ステージがある時とない時で丸太が見え隠れするようにしているのは、一般のお客さんから見てもステージの有無が分かりやすく、とても良い建築だと思った。
後半では、千利休は暗く不完全さのある空間で茶を行うことで、その先の見えない内部構造から始まり、更に心の内や自然への想像をより行いやすくしていることを学んだ。そして、三井氏も故郷を向いた隠れてしまうフレームを用いて、故郷は見てなくとも感じられるようにするといった手法を行っていた。昔の偉人たちの考えをそのまま用いるのではなく、学んだことを自分なりに適応することの面白さを垣間見ることができた。私も私なりの自然との関わり方を見つけていきたいと、改めて思うことができた講演でした。
R125:大場玲旺
本日は三井嶺氏にご登壇いただいた。講演を通して特に印象に残ったのは、「建築の存在感を消す」という考え方だった。三井氏はそれを「透明性」という言葉で表現していたが、単に"見えない"という意味ではなく、「心地よさ」や「風景への馴染み方」といった、より感覚的な透明性であると私は受け取った。 私はこれまで、建築やデザインには人の感情や行動に働きかける力があると考え、「強い印象を残すこと」や「視覚的に語りかけること」を意識して作品をつくってきた。しかし三井氏は、自然の流れに寄り添いながら、人が必要最低限の手を加えることで、建築が風景の一部として溶け込み、やがて"消えていく"ような在り方を提案していた。視点を変えれば、「意識させないこと」を操作するデザインもまた成立するのだと、今回の講演を通じて改めて気づかされた。それは決して「何もしない」という消極的な姿勢ではなく、むしろ自然や人間の営みに対する深い観察と理解に裏打ちされた、非常に洗練された設計思想であると強く感じた。 また三井氏は、住宅の屋根の設計において「視覚的に意識されない屋根」を目指したという。視界に入らないよう、あえて急勾配の屋根とし、目線の高さからは見えなくなる角度に設計することで、屋根は確かにそこに存在しているが、ある視点からは視覚的に "消える"ような在り方をつくり出している。この話を通して、「建築の見える/見えない」という問題が、単なる造形の問題ではなく、身体的な感覚や経験と深く結びついていることに気づかされた。必要性と空間体験のバランスを繊細に読み取りながら設計するその姿勢に感動し、私自身も、目に見えるものだけでなく、見えないことがもたらす豊かさに意識を向けながら設計に取り組んでいきたいと強く思った。
R126:寺崎唯純
今回の講演では三井嶺さんにご登壇いただき、" 在る "けれど" 見せない "という建築の在り方が印象に残りました。私はこれまで、建築はある意味で「存在を示すもの」だと考えていましたが、三井さんはそれを「透明性」という言葉で表現しており、建築は確かにそこに存在しているけれど、人の意識に「これは建築だ」と強く訴えかけることなく、周囲の自然や空気感、流れに溶け込むように設計されていました。その在り方に、これまでにない視点を感じました。「あえて意識させないことで、逆に空間の意味が立ち上がる」という考え方は、自分があまり意識してこなかった部分でもあり、今後空間を考える上で新しいヒントになりそうだと感じました。万博で三井さんが手掛けられている「お祭りの仕掛け屋根」の話も印象的でした。丸太1本を横に置いたシンプルな構成でありながら、木そのものの存在感が空間の" しるし "のようになっていて、建築的な主張を抑えつつも、しっかりと場の気配を生み出しているように思いました。また、柱に見えないよう植物で覆ったり、時間帯や見る角度によって姿が変わるように設計されている点も興味深かったです。あえて建築を「見せる」のではなく、「感じさせる」ことを大切にするその工夫には、空間に対する繊細な視点と柔らかさがあり、とても魅力的でした。これまでは、素材や空間のかたちを わかりやすく伝えること に意識が向いていましたが、「見えないもの」「意識されないもの」が持つ力をうまく設計に取り込むことこそが、風景や周辺に馴染む建築につながるのだと思いました。私自身も、自然との関わり方や空間の余白のつくり方を、これからさらに探っていきたいです。
R127:庵本未優
今回の三井嶺氏の講演は、物の存在と人間の認知の関係性があるうえで建築はどう表現されるのか、という観点において興味深い内容を聞くことができる機会であった。「透明性」といった言葉を用いた説明がされていく中で、既に在る空間に対して建築が透明性を持つとはどういうことか、それは単に視覚的なものではなく、快適さや居心地のような感性をも含んでいるということではないかと解釈した。
大阪万博のポップアップステージにて用いられた丸太一本という表現では物理的な透明性だけでなく、手数を最小限にするという過程の明快さが見られた。本来樹木は地面に対して垂直方向に延びるという自然の摂理を利用して、木を頭上に掲げる、木を横たえるという操作をもってこれが充分であるとする考え、「人間の痕跡」と表現したその認識をすり抜けた行為こそが透明性をあげているのだと捉えることができた。
空間にリズムを生み出すことは建築だからこそできることであるが、なにも ない ということに本質があること、これにより想像の余地が与えられることなど人間の認知と深くか
かわりがあることを再認識したと同時に、" 見えない "ことに対する本質を見抜く力を養っていきたいと思った。
R128:石井琢夢
三井氏の講演の中で透明性という言葉が度々登場した。この透明性という言葉には私が聞く限り大きく2つの意味があるように感じた。ひとつは何らかの操作によってモノの存在を消そうとすること、もうひとつは何らかの操作によって見えないモノを意識させようとすることである。言い換えると、透明化と不透明化である。
三井氏は万博のステージを、ただ丸太を浮かせただけのような見せ方で作っている。この、「ただ何かをしただけ」という言葉には、大掛かりなことをせず最小限の手で建築を作ることで建築としての存在感を消そうとする意図がある。今回の大阪万博には木造大屋根リングという巨大なコンテクストがあり、万博会場の中で存在感を放つ建築はこのリングだけで十分だともいえる。そのような状況の中で、建築としての存在感を抑えることにとどまらず、建築としての認識からも脱却することで人々の認知から外れようとする試みをステージの設計の中で行っていた。つまりステージの透明化である。
一方住宅の設計においては不透明化を実践していた。正方形という幾何学の連続と岩の連続によって円、ひいてはその中心を浮かび上がらせようとしている。断面的には中心に柱があってそこから屋根が伸びているような形が思い浮かぶ。この屋根は一般的な住宅に比べると急勾配になっており、屋根が高くなっている側を向くと屋根が視界に入らない。これは屋根の透明化である。屋根が見えないという視覚情報と実際には屋根はあるという意識の両立によって、タープのような開放感と安心感を生み出している。
耐震補強の事例では、石のアーチに骨があったら?という問いから鋳鉄製の門型フレームを作っているが、これは骨を作ることでアーチという強固な形を浮かび上がらせようとする不透明化の試みと言えるだろう。
この透明化、不透明化という試みは、単なる視覚情報にとどまらず様々な要素が組み合わさって知覚される建築というものだからこそ可能な実験のように思う。三井氏の作品以外にも、透明性という文脈で建築を見てみたいと感じた。
R129:市之瀬航生
三井氏の講演を聞いて、建築の理想はないことであり、その中でも「記号化」や「透明性」という自然に近い形で人の意識を建築物というイメージから外そうとする姿勢が印象に残った。
大阪万博で行ったステージのお話では、言語が世界を定義するという言語論的な視点を逆手に取り、柱の存在をあえて自然物で包み込むことで視覚から消す手法は、建築における記号化と透明性の関係性を巧みに体現しているように感じた。装飾を植物などの自然の媒介に置き換えることで、人工物を自然へと接続し、木をかかげるという行為そのものを人の痕跡=建築として読み替える発想は、建築が形式や構造を超えて意味を生むプロセスを示している。また、柱の存在が視覚的に消失することは、単なる視覚的透明性ではなく、認識から消えるという記号的操作に基づいており、その思想には三井氏の強い理念を感じた。建築は完成した物体として存在するだけでなく、人との関係性や風景との調和、身体的な記憶を通して意味が立ち上がる。そのような建築を追求する三井氏の姿勢は、建築の根本的な意義を再認識させてくれるものだった。
R130:内田朔弥
今回のレクチャーでは建築空間における透明性が千利休の茶室から来ており、どういった居心地の良い空間を作り出すかを学んだ。私たち学生も建築家たちも設計する際に点と線に関して、一度は考えたことがあるがそもそも、点というものは自然の模倣であり、山や石、木などの1つのものであると考えられ、点を中心とした円(範囲)が空間ととらえることができる。それは、気が集まれば森になるような感が方だと自分は考えた。これを私たちが新たに点を加えた空間が人の作った人工的な空間であり、都市で言うと駅と、主要建築群を結ぶ軸などがあげられると考えました。誰にでもせきそうなこの点の追加といった操作だが、私たち学生視点では新たに、点をいくつも追加して、独自の空間や外観を作り出して、無理やりな設計をしてしまうために、独特な形からなる空間デザインに気を取られ、空間の本質といったものを見誤ってしまうことが多いと自分の経験から痛感しました。レクチャー内で、千利休の茶室に用いられる「キワ、もなべ??、反転」などが柱を4本から3本に抜くことで新たに点を作り出し、キワに用いることで圧迫感をなくすことができ、はかない空間となり居心地の良い空間ができる抜き(引き算)の方式があることが分かった。足し算で大きくするよりかは、引き算でいらないものを処分していき、明確化していくことが本来の透明性であると考えた。また、軽井沢の別荘の事例では、斜面に2つのボックスを置き、それぞれの中心の柱(テントの中心柱)を抜き、周辺の中心軸に向かって角度をつけて、大きな開口部を作り、止まりくる人が建築物を超えて、思いをはせることができる空間を作り出すことができる学びました。
R131:小山内里奈
本講演「古典の先の原初へ」では、三井嶺さんの建築に対する独自の思想と実践を知る貴重な機会となった。三井さんは「骨と装飾」「茶室に見る" 無 "と透明性」「イメージの小屋」といった多様な切り口から、建築を単なる機能や意匠にとどまらず、思考と文
化の表現として捉えていた。特に、関西万博のポップアップステージのように、構造そのものを空間体験として昇華させる試みからは、「建築とは何か」を根源から問い直す姿勢が感じられた。私は設計において「地域性」や「持続性」といったキーワードを大切にしてきたが、三井さんのように建築の原初的意味に立ち返りながら、それを現代に翻訳する思考は、今後の設計において強く参考になると感じた。また、茶室や詩的空間の引用を通じた「間」や「余白」の価値にも改めて気づかされた。建築を形や性能で語るのではなく、そこに立ち上がる関係性や感覚をいかに設計に織り込めるか。その本質的な問いを突きつけられた気がすると感じた。表層的なデザインにとどまらず、空間の本質にある哲学や人の営みの歴史と向き合うことの重要性を再認識できた講演だった。
R132:北島拓弥
「古典の先の原初へ」。タイトルにある通り、講演の中で語られたのは主に建築の原初ともいうべき柱と梁、そしてそれによって構成される門型の構造体(フレーム)についてであり、そこに三井氏の建築に対する様々な思案を拝受した。そして講演の冒頭にて引用されたのはコーリンロウによる著書「マニエリスムと近代建築」のなかで指摘された「透明性」だった。私は三井氏が柱と梁によって構成されるフレームによって、実と虚の双方の透明性を作り出すことでフレームの価値を増幅させていると考えられた。
三井氏による2025大阪関西万博のポップアップステージ(西)では一本の松の皮付き丸太の梁とそれを支える2本の鉄骨の柱によって構成され、そのシンプルな3つの部材はフレームを形成する。このフレームは観測者に認知されるものの、無論そのフレーム越しにポップアップステージの背後に聳え立つ木造大屋根リングを見通すことができる。三井氏は鉄骨の柱脚部に装飾を施すことやその他細部のディテールによって柱の存在を無くすことを意図しており、その効果からさらにフレームの簡素さが際立ち、フレームよりもその背後の物質を視覚者に強く認知させることから、フレームはガラスのような実の透明性の性質を持つと言えるだろう。またフレームは垂直方向に強い軸線を示し、観測者にその先にあるであろう空間に対する期待感を持たせる。これにより、観測者はこのフレーム越しに、ポップアップステージの先の、木造大屋根リングの先の、各国のパビリオン群の先の、まだ見えぬ万博の中心を見るのである。これは虚の透明性と同様の性質と捉えられるだろう。講演にて紹介され、新建築にも掲載されている三井氏のもう一つの作品である「Tull Weekend Home」においても同様の内容が考えられる。フレームにより大屋根を支える明快な構造により実の透明性を獲得し、軽井沢の自然と一体化することで開放的な空間を作るとともに、フレームの軸線を遥か遠くの家主の故郷へと向け、その存在を家主に意識的に認知させることで虚の透明性を獲得し、軽井沢での暮らしと軸線の先の故郷とを結びつける意図が読み取れる。このようにフレームは実の透明性と虚の透明性の効果により、単なる三本の部材による構造体を超えた影響力を持つものとなる。
このフレームによる透明性についてはさらに掘り下げて考えられる余地があると思える。三井氏は講演の中で透明性と同様に幾何学についても取り上げていた。柱と梁によるフレームは建築をかたちつくる上での最小単位の幾何学とも捉えられるだろう。そしてそのフレームから伸びる軸線はフレームと遥か遠くのものとを結びつける作用を生み出す。日本人に馴染みの深い鳥居は、柱と梁によって構成されており、神域と俗界を結ぶものである。イギリスの古代遺跡であるストーンヘンジは縦石と横石が柱と梁の様に構成されており、天文台として宇宙との繋がりを持った構造物であるという説が存在する。ここでフレームによる軸線は認識や空間を超えて二点を結びつける強い力を持つ幾何学として見ることができる。ロウが虚の透明性を持つ近代建築の代表建築家として挙げたかのコルビュジエは「建築をめざして」にて、「軸線とか、円とか正方形などは、幾何学の真髄であり、われわれの目が測る事象であり、認識することである。もしそれでなければ、偶然か、異常か、いい加減かである。幾何学は人間の言葉である。」と述べている。古典の先、原初にも通ずる柱と梁によるフレームとそれによる軸線について、惹起される非常に実りのある機会となった。
R133:小島徹也
今回のFAレクチャーでは建築家の三井嶺さんより「古典の先の原初へ」というテーマで講演をして頂いた。建築物の自然への模倣に対する考え方が前衛的であり、少々理解が追い付かない点もあったが全体の話を通して今までの建築の枠から外れたアヴァンギャルドな思考に触れる貴重な機会であったと感じている。また、講演内で紹介された、感じられたイメージをそのまま紙に書き起こし、ひたすら書き続けるという斬新なメモの取り方も脳内と紙にその時のイメージが残ることからとても効果的な方法であると感じた。
私が最も興味を持った点は建築物の自然からの逸脱ぶりとぱっと見た時の構造的合理性を両立させようとしている点である。私は一般的に奇をてらうような構造を作るときは、見た目の不思議さを先行させるために現実的な構造部分はわかりにくくする傾向があると考えている。それに対し、建築には利用者に対して本能的な安心感を確保する必要があるという考え方が非常に興味深かった。大阪万博において様々なパビリオンや建築が出展される中である種のカウンター的な考え方であると思う。ただし、構造の一部が動く建築に関しては建築物としての合理性や利用者の本能的な安心感に相反するのではないかとも思った。
R134:中野宏太
今回のレクチャーでは「古典の先の原初へ」というテーマで建築家の三井さんに講演いただきました。話のはじめにお話しされた建築がない方が良いと言う考えをとても印象深く覚えている。私は、建築でない要素の心地良さがあれば必ずしも建築が必要であるわけではない、という風に考えた。
公演の中では三井氏が実際に設計した事例の紹介があった。万博のポップアップステージでは藤本氏設計のリングに対して鳥居を作るというコンセプトであった。三井氏は二本の柱とそれを繋ぐものによって構成される鳥居を一本の木材を横に浮かせることによって構成した。これにより透明感があるかつステージとしてシンボルとなる鳥居があった。建築しすぎないという考えが現れており、最低限の建築(空間)を設計する、ある種の建築のアルケーを設計するという試みは建築とそれ以外からの最大限の空間体験を得ることが
できるのではないか。
自分は研究で目と建築の物体までの距離による空間構成について検討していが今回の透明性に代表される" ない "に関して軽視していたとわからされた。透明性というのはその透明の先にある物理的な建築物によらない要素による空間構築であるのだと理解した。
R135:宮澤太陽
今回、三井氏の講演を聞いて建築の存在感に関して考えるきっかけとなった。三井氏は一貫して「透明性」や「記号化」という操作を行い建築という人工物を自然に溶け込ませること・人の意識、認知から外す操作を行っていることが印象的であった。
多くの建築物は人の生活を豊かにするために作られる人工物である。それは、自然物とは対照的なものであり、建築や都市、空間の計画を行う際には人への感情や行動を変化させることを意識し検討を行う側面があるように思う。そのように考えると、建築の存在・存在感を用いて人へアプローチを行っている。しかし、三井氏は「建築の存在感を消す。」という考え方で設計を行っていた。必要最低限の操作によって、そのまちや自然・風景に溶け込む建築となる。確かに、潜在意識として私たち人が安らぎや落ち着くと感じる空間は自然が豊富に存在しつつ人の生活の豊かさ(必要最低限に整備されたまち)を持ち合わせる空間・場所であると思う。私はこれまでの設計で過剰に建築・空間操作を用い直接的に人に変化を促そうとしていたと気づくきっかけとなった。理解し、意識しているつもりでいたが周辺環境・コンテクストを意識して計画・設計を行うということを再認識することができた。
R136:相原秀星
今回のFAレクチャーでは、「古典の先の原初へ」というテーマで建築家の三井嶺氏にご講演をいただいた。
三井氏が設計された大阪・関西万博の「ポップアップステージ(西)」では、鳥居から着想を得て、横たわる一本の皮付きの松の丸太とそれを支える細く作られた柱とワイヤーによって構成されたシンプルな設計となっている。三井氏が「透明性」という言葉で表されたように、細く作られた柱は周辺と馴染み建築物の存在感を消す工夫がなされており、かつ丸太という自然物が宙に浮いているように見えるという一点の非自然的なアプローチでのみ観客を動員するステージとしての目印を与えている。また軽井沢の住宅設計でも、屋根を急勾配とすることで、視界から屋根の存在が視界から消え意識されなくなるような設計を行っている。確かにその場に存在するのにも関わらず視覚的に見えなくなり意識から外れるという建築の透明化により、意識されにくい自然や空間を浮かび上がらせており、非常に非常に興味深く感じられた。
R137:打越優音
今回のレクチャーを通して、記号や人の認識から生まれる建築の考え方について学びを得ることが出来た。三井氏はレクチャーの中で「透明性」という言葉を用いており、単に建物を透明化するのではなく、人間の視覚などの認識を用いて建物の存在感を消し、透明性を表していることを明かしていた。紹介されていた三井氏が設計された万博のポップアップステージでは、丸太を横に倒し、掲げた状態に見せることで人工物として認識させている。それに合わせて柱を物理的に細くすることや石壕化することで柱の存在を消し、建築物としての認識を無くしている。屋根を回転させることで、角度によって使い方を変化させつつ、屋根という固いイメージを払拭している。こうした建築物から外れたものとして認識を与える操作の組み合わせで構成することで、建物に感覚的な透明性が生み出していることを知ることが出来た。また、こうした操作の中で建築物として合理性は残していることで、建築物として成り立っていることも理解することが出来た。
自分のこれまでの設計では、建物に透明性を与え存在感をなくすという考え方をしたことが無く、逆に規模やデザインによって存在感を与えることで見る人に認識させようとする考え方をしてきた。そのため、三井氏の考え方を自分なりに解釈し、自分の設計に取り込んでいきたいと強く思った。
R138:加藤緋奎
今回の三井嶺氏の講演を通じて、「建築とは何か」「場とはどう成り立つのか」といった根源的な問いに対して、改めて向き合う貴重な機会となった。ステージというと、一般的には目立つ構造や高機能な装置を想起しがちであるが、三井氏が提案したポップアップステージでは、最小限の構成要素のみで、人が集い、意味が生まれる「場」をつくるという意志が示されていた。また、講演内で語られた「存在を消す」というキーワードも深く印象に残った。柱の存在感をあえて消すことで、建築があることよりも、存在しないように見せることで空間を開くというアプローチは、簡素でありながらも豊かさを伴う空間のあり方を提示しているように思われた。さらに、素材の観点からは、大阪万博のポップアップステージでは、松の葉という、あえて朽ちる素材を用いるという選択がなされていた。これは、持続可能性の意味を改めて問い直すきっかけとなった。一般的なリサイクルや再利用が環境的や経済的に常に最良とは限らない中で、一過性や時間の経過を肯定的に受け入れる建築のあり方が提示されていた点は非常に示唆に富んでいた。三井氏の建築は形や機能といった物理的な側面を超えて、建築が人と人との関係性や行動そのものを支える場となりうることを示していたように感じた。
R139:白倉海翔
今回のFAレクチャーでは、「古典の先の原初へ」というテーマで建築家の三井嶺氏にご講演をいただいた。
今回の講義では、透明性や点と線の考え方、視覚的捉え方など多くの学びを得ることができた。その中でも三井氏が終盤で仰っていた「僕の建築は全部超合理的にあらゆるものがバックグラウンドで成立するように作っていて、それで説明でいいねって言ってもらえるとこまで研ぎ済ませます。そうでないと建築が残らない。」に建築の本質があると感じた。
私にとって建築は、住まいや利用する場をこえて、美や感情に影響を与えるものだと考えている。ただ、それは利用する人があってこそのものだと改めて感じた。そのため、合理性があるからこそ自身の思想や手法が周りに理解され、成立するものだと理解し設計を行なっていきたいと思う。
R140:野口健人
今回のレクチャーでは、初めて「スケッチをしながら話を聞く」という体験をした。話の内容を文字として記録するのではなく、聞こえてきた言葉から連想されるイメージを手を動かしながら描き続けるというやり方は、これまでの講演の受け取り方とはまったく違っていた。頭の中に浮かぶ断片的なイメージやキーワードをとにかく紙に残すことで、話の流れというよりも、その時々に感じた印象や違和感、引っかかりを掴むことができた気がする。言葉で全体を追うのではなく、自分の感覚に集中することで、建築の話をもっと感覚的に受け止められたように思う。
万博というスケールの大きなプロジェクトにおいて、建築の存在を限りなく薄くしながら、かつ強い記号性を与えていくという操作は、単純に目立つものをつくるのとは正反対の姿勢だと思う。丸太や柱の扱い、回転する屋根といった構成要素も、それ単体で見れば単純な素材や仕組みなのに、人の認知の中ではまったく違うものとして立ち上がる。人工物でありながら自然に近いような錯覚が生まれるのは、意識的に構成を組み立てながら、同時に人の無意識にも入り込んでくる設計の精度によるものだと感じた。
三井さんの建築全般に共通しているのは、明確な造形や機能よりも、見る人が「どう受け取るか」を起点にしていることだと思う。柱や屋根といった部材が、そのままではなく既視感のある家具や風景に寄せられていくことで、見る側は無意識のうちに安心したり、建築であることを忘れたりする。その手法は視覚的なトリックというよりも、人の記憶や経験に入り込むような深さがあるように感じた。
R141:橋本咲紀
この演説を聞いて印象に残ったのは『建築が本当に必要か』という言葉を受けた時だ。建築家である三井氏にとって建築を作り出すことがゴールではなく、作るべき建築物が、自然に空気のように存在する空間そのものを作ることだということだった。
大阪万博のポップアップステージについてのお話では、さらに建築の存在意義について考えさせられた。鳥居をイメージしているはずなのに、鳥居の日本の柱を無くし、一本の梁から始めるという原始的で、原点に戻る建築物を設計している。これは建築の機能や意匠の集合ではなく、人が集い、意味を生み出すための“きっかけ”としての機能があった。その視点に建築を学ぶものとして大きな刺激を受けた。特に、皮付きの松の丸太を用いた屋根構造や、 地元の人の手と素材によって組み立てられるというプロセスは、建築がいかに祝祭や地域性と結びつくかを表しているように感じた。
建築が空間の主役ではなく、人間が主役になるべきだということもかんがえさせられた。シンプルな構成の中に、空間借り方や、 象徴性を持たせる三井氏の建築手法は、表面上だけのデザインではないものを感じさせてもらった。今後の卒業設計を考える際に素材の力など、建築そのものが持つ気配をもっと意識したいと思った。
R142:羽山和
三井嶺氏による講演「古典の先の原初へ」では、建築をつくる根源的な態度や思考のあり方について、多くの刺激を受けた。特に印象に残ったのは、「空間の原初のスケッチ」、そして「点から始まり、点と点を結ぶことで新しいものが成り立つ原理は、頂点にして原点である」という言葉だった。この一文には、複雑な建築や都市の構成も、突き詰めればごく単純な関係性の積み重ねであり、そこに創造の本質が宿っているという哲学的なものを感じられた。万博を例に、すでに存在している構造物(リング)に、象徴的なキャラクター(鳥居)を与えることで空間の意味を変化させるという話を聞いて、さらに、鳥居よりも単純な形を思考し、その記号性が人にどう受け取られるかまでをも想像している点に、三井氏の建築に対する繊細で深いまなざしが感じられた。この考え方は、単なる構成原理ではなく、人が世界をどう認識し、意味づけていくかという根本的な態度を示しているようにも思えた。設計とは、何かを「つくる」こと以上に、まず「気づく」ことから始まるのだと実感した。留学生の模型スタディに触れた場面では、「建築物」という前提が人によって異なる捉え方を生み出すことの面白さが語られていた。認識の違いや曖昧さが、むしろ建築に豊かさをもたらすという視点は、これからの設計において非常に大切にしたい感覚だと思った。
また、講演の中で、特に印象的だったのが、スケッチやパースに常に思考のメモが描き込まれていたことだった。考えてはイメージし、また考え直して描くというこの往復のプロセスが、設計という行為の本質であり、創造の現場のリアルさが伝わってきた。特別研究や特別設計でも指導される、一旦大きく踏み込んでみて、失敗したら戻るという考え方がどれだけ大事かを改めて実感させられた。
R143:平野鈴奈
今回、三井嶺氏によるご講演「古典の先の原初」では大阪万博のパビリオン設計の元、建築の存在感に対する新たな視点を捉えられた。特に、自然と建物の同化、調和を「透明性」で表現していたことが印象に残った。
ご登壇いただき、初めに衝撃的であったことはご自身のお話よりも紹介頂いたスライド内容のスケッチをするようにとご助言いただいたことである。講演の内容は、聞くだけではなく手を動かすことでより記憶が残り、こうして感想を記述する際にも視覚的及び聴覚的情報が強く残り鮮明に思い出せることに感銘を受けた。今後もこの姿勢で建築を学んでいきたい。さて、建築の「透明性」については、自身の設計の際に建物という人工的な物体と自然との同化は難しいと感じていた。しかし、三井氏は建築物の細部のこだわりや使用する材の繊細さにより「透明」に繋げていた。三井氏が制作された大阪万博のポップアップステージでは、万博が示すSDGsに対しての異議も含めて屋根の装飾を松葉葺きにし、横倒しの丸太に載せていた。それらの支えは細くY時型の支柱2本とワイヤーのみ。このように人が感じる「物」の存在感に対する認識と視覚的誘導により人工的でありながら素材と視覚的認識で「透明性」を表現していた。上記のような取り組みを紹介いただき、細部の繊細さこそが建物の原初であり、人々の建物に対する認識に強くつながるのだと解釈した。今後、自信が携わる設計においてもこの考えを取り入れていきたい。
R144:吉野仁輝
三井氏の講演「古典の先の原初へ」を聞き「自然な状態とよく言うが最も自然な状態なのは何もない、ありのままの自然だ」という考え方に基づいた建築への向き合い方がとても印象的だった。設計するにあたってどのような空間を作るかを考えるときに外構、壁、柱、開口など建物自体のエレメントに着目して設計しがちだが、建物を設計するその土地の空間性と建物用途の関係性に本質的に着目しどのような空間が必要かを考え、それに必要な最小限のエレメントのみをそこにしつらえることで、建物という人工物を自然な空間に入れ込んでも自然に溶け込むものになるのではないかと感じた。
「建築物なんてない何もない状態がよい」という三井氏が、茶室というものに魅了され熱中していることも印象的だった。茶室は設計者や茶人によって入念に作りこまれた世界観を体現する建築であり、「建築物なんてない何もない、自然な状態がよい」という考えとは全く逆のように感じられたからだ。講演後三井氏にそのことを伺ったら、三井氏自身も同様に考えているとおっしゃられていた。三井氏の膨大な建築史の知識から分析された利休の茶室に関する考察はとても興味深く、自分の思想とは真逆のものに魅せられて本気で取り組んでいるからこそ、どちらの考えにも強い説得力が感じられた。
このようにどのような視点に立っていても真逆な視点に立って考えることで自分の視点を俯瞰できより説得力あるものになると感じたので今後の設計に生かしていきたいと思った。



